福山の「ホロコースト記念館」に行ってきました!
昨日は、尾道の吉原さんと、福山の「ホロコースト記念館」に行ってきました。
吉原さんが、教会のボランティアで、ここの展示物のおそうじや、海外からのお客様のお迎えのお手伝いなどしていると聞いていたので、案内してもらって、一緒に行ってきました。
「ホロコースト」とは、ヒトラーのナチス・ドイツが、ユダヤ人600万人を強制収容し、虐殺したことを言います。
アンネの日記で有名な、アンネ・フランク(1929~1945)は、ユダヤ系ドイツ人として生まれただけで、隠れ家で約2年間身を潜め
その後、収容所で寒波が襲い食べ物もなく、チフスのため、1945.3.12に、15才と9ヶ月で亡くなりました。
ホロコーストで亡くなったユダヤ人150万人の子どもたちの一人です。



実際に、今もきれいにアンネのバラが咲いていましたよ。


館内は撮影禁止ですので、展示物などをここでご紹介することができませんが、
買って帰った写真の絵ハガキに、アンネの部屋がありましたので、どうぞ!

3畳くらいの部屋で、実際にはここにベッドなども置かれていたようです。

この人が、アンネのお父さん、オットーさんです。
オットーさんが、アウシュヴィッツ強制収容所で自由となり、家族でただひとりアムステルダムに帰ってくることができました。
そして、隠れ家生活を助けたミーブさんから「アンネの日記」を手渡され、
自分の残りの生涯を、アンネたちが願った平和の実現のために働こうと決心されました。
このホロコースト記念館には、多くの「本物」が展示されています。
「アンネの日記」も、精巧に復元されて、展示されていますよ。当時、食べていたものも。
実際の囚人服も、焼け跡の小さい子どものくつ、婦人のくつも…。
本物を間近で見る、触ることのできるホロコースト記念館は日本では最初でただ一つ、ここだけです。
1942年6月12日、アンネ13才の誕生日に両親がアンネが欲しがっていた日記帳を贈りました。
アンネは早速、日記の1ページにこのように記しました。
「あなたになら、これまでだれにも打ち明けられなかったことを、なにもかもお話できそうです。
どうか、わたしのために、大きな心の支えと慰めになってくださいね」
アンネは、日記に「キティー」と名前をつけ、友達のようによんでいたそうです。

アンネの日記1944年4月11日より
「もしも神様の思し召しで生きることが許されるなら、つまらない人間で一生を終わりはしません。
きっと世の中のため、人類のために働いてみせます。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
父、オットーさんは、
アンネたち150万人の犠牲になった子どもたちにただ同情するだけではなく、
平和をつくるために何かをする人になってくださいと、世界中の子どもや青年に語っておられたそうです。
ガス室に送られようとしているユダヤ人を、勇気を持って助けた人として
日本人外交官 杉原千畝(ちうね)さんのお写真も飾られていました。
1940年、2139通の日本通過ビザ(査証)を発給し、約6000人のユダヤ人を救ったと記されていました。
アンネの日記1944年4月5日より
ただ無目的に、惰性で生きたくはありません。
周囲のみんなに役に立つ、あるいはみんなに喜びを与える存在でありたいのです。
私の周囲にいながら、実際には私を知らない人たちに対しても。
私の望みは、死んでからもなお生き続けること!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
アンネの日記1944年3月26日より
与えよ
すべては小さいことから始まります・・・
待たないで今すぐ始められるとは、なんてすてきでしょう。
わたしたちは、世界をゆっくり変えていくのです!・・・
惜しまないで与えられる限り与えましょう!
いつでもなにかを、親切だけでも与えることはできるのです!・・・
考えるかぎり与え、そして受けてください。もっともっと。
勇気をもって与えてください!
与えて貧しくなった人はいません。。。。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
書ききれませんね~。
実際に行って、肌で感じてみてください。
行ったものしかわからない「感じるもの」がありますから。
アンネ・フランクは、1929年6月12日生まれ、本命八白土星、潜在意識六白金星。
昭和4年生まれですから、まだまだ、お元気で私たちと同じ時代を生きておられた人だったかもしれません。
弥栄 弥栄

吉原さんが、教会のボランティアで、ここの展示物のおそうじや、海外からのお客様のお迎えのお手伝いなどしていると聞いていたので、案内してもらって、一緒に行ってきました。
「ホロコースト」とは、ヒトラーのナチス・ドイツが、ユダヤ人600万人を強制収容し、虐殺したことを言います。
アンネの日記で有名な、アンネ・フランク(1929~1945)は、ユダヤ系ドイツ人として生まれただけで、隠れ家で約2年間身を潜め
その後、収容所で寒波が襲い食べ物もなく、チフスのため、1945.3.12に、15才と9ヶ月で亡くなりました。
ホロコーストで亡くなったユダヤ人150万人の子どもたちの一人です。



実際に、今もきれいにアンネのバラが咲いていましたよ。


館内は撮影禁止ですので、展示物などをここでご紹介することができませんが、
買って帰った写真の絵ハガキに、アンネの部屋がありましたので、どうぞ!

3畳くらいの部屋で、実際にはここにベッドなども置かれていたようです。

この人が、アンネのお父さん、オットーさんです。
オットーさんが、アウシュヴィッツ強制収容所で自由となり、家族でただひとりアムステルダムに帰ってくることができました。
そして、隠れ家生活を助けたミーブさんから「アンネの日記」を手渡され、
自分の残りの生涯を、アンネたちが願った平和の実現のために働こうと決心されました。
このホロコースト記念館には、多くの「本物」が展示されています。
「アンネの日記」も、精巧に復元されて、展示されていますよ。当時、食べていたものも。
実際の囚人服も、焼け跡の小さい子どものくつ、婦人のくつも…。
本物を間近で見る、触ることのできるホロコースト記念館は日本では最初でただ一つ、ここだけです。
1942年6月12日、アンネ13才の誕生日に両親がアンネが欲しがっていた日記帳を贈りました。
アンネは早速、日記の1ページにこのように記しました。
「あなたになら、これまでだれにも打ち明けられなかったことを、なにもかもお話できそうです。
どうか、わたしのために、大きな心の支えと慰めになってくださいね」
アンネは、日記に「キティー」と名前をつけ、友達のようによんでいたそうです。

アンネの日記1944年4月11日より
「もしも神様の思し召しで生きることが許されるなら、つまらない人間で一生を終わりはしません。
きっと世の中のため、人類のために働いてみせます。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
父、オットーさんは、
アンネたち150万人の犠牲になった子どもたちにただ同情するだけではなく、
平和をつくるために何かをする人になってくださいと、世界中の子どもや青年に語っておられたそうです。
ガス室に送られようとしているユダヤ人を、勇気を持って助けた人として
日本人外交官 杉原千畝(ちうね)さんのお写真も飾られていました。
1940年、2139通の日本通過ビザ(査証)を発給し、約6000人のユダヤ人を救ったと記されていました。
アンネの日記1944年4月5日より
ただ無目的に、惰性で生きたくはありません。
周囲のみんなに役に立つ、あるいはみんなに喜びを与える存在でありたいのです。
私の周囲にいながら、実際には私を知らない人たちに対しても。
私の望みは、死んでからもなお生き続けること!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
アンネの日記1944年3月26日より
与えよ
すべては小さいことから始まります・・・
待たないで今すぐ始められるとは、なんてすてきでしょう。
わたしたちは、世界をゆっくり変えていくのです!・・・
惜しまないで与えられる限り与えましょう!
いつでもなにかを、親切だけでも与えることはできるのです!・・・
考えるかぎり与え、そして受けてください。もっともっと。
勇気をもって与えてください!
与えて貧しくなった人はいません。。。。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
書ききれませんね~。
実際に行って、肌で感じてみてください。
行ったものしかわからない「感じるもの」がありますから。
アンネ・フランクは、1929年6月12日生まれ、本命八白土星、潜在意識六白金星。
昭和4年生まれですから、まだまだ、お元気で私たちと同じ時代を生きておられた人だったかもしれません。
弥栄 弥栄


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